北京ドライバー4ースリルと人情

 とっぷりと日が暮れてタクシーは大通りを走行、左手の向こうにホテルが見えて来た。

中国は車が右側通行、中央分離帯がある幅の広い道路で横断歩道がなく、右側の地下鉄入口でタクシーを降りて地下道で反対側に出て少し歩けば戻れる。

にわかツアコンの一日も無事に終わろうとしていた。

 

私「あれがホテルだから右側の地下鉄入口で停めて。あとは歩くから」

運「あ、なんだ左側のあれか、それなら」この後が早口で聞き取れずにいると、地下鉄入口を通り過ぎた。

私「あっ、地下鉄の!」

運「大丈夫だ、心配するな」、いきなりハンドルを切って車道と歩道の中間の自転車レーンかなにかを走り、クラクションならして歩行者慌ててよける。

突然のカーアクションまがいに後ろ3人「え、なにっ、なにー!」、一気に緊張感マックス、私も「ど、どこに行くのー!」と言ったかどうか覚えていない。

運転手忙しくハンドル操作しながら「俺は生まれも育ちも北京だ、最近地方から来た運転手が多いけど、あいつらはこんな道は知らないんだ」

スリル満点などと言ってる場合じゃない、右折して狭い路地を曲がって短いトンネルを抜け、ぐるっぐるっとまわってシューっと・・・停車した。

何がどうなったか分からないが、ホテルの正面エントランスにいた。

運転手「着いたよ、どうだい」と、どや顔。

私「あ、ホテルだ。あなたすごい!」、料金を払い「お釣りは要らないよ」と言うと、運ちゃんにっこり笑顔で「アリヤトー!」と覚えたての日本語で去って行った。

北京べらんめえドライバーのスリルと人情、忘れられぬ濃~い思い出。

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明日と明後日はブログお休みします。

7月スケジュール

8月8日(土)定例デュオライブ 

四谷三丁目ダイヤモンドクラブ・特集・・・考え中

昨日のライブ / 北京ドライバー3-べらんめえ

昨日、銀座「スイング」、右近茂さんTS 鈴木直樹さんCl 小林真人さんB 八城邦義さんDrで出演。

長いコロナ休業に入って今月10日に出演して以来のライブ、多くのお客様来店、以前に戻ったかの雰囲気だったが、店内随所に感染予防対策でマイクにもカバーが。

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名手揃いの出演で"Undcided"からスタートし、リクエスト「リンゴの木の下で」「スターダスト」など。お客様も「やはり生はいい、動画とは全く違うよ」と、自粛生活の待ってましたとばかりのお楽しみ、それは我々も同じでノリに乗った。

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北京ドライバー3-べらんめえ

運転手はぶっきらぼうに「観光か?」と聞くので、「そうだ」と答えると「どこに行った?」。

緊張しつつ、長城の往復が渋滞して市内どことどこ回って、故宮は閉館時間アウトだったと言うと、「あ、そらぁあんたが悪い」といきなり。

巻き舌のようなクセは生粋の北京っ子だろう、日本語でいえばべらんめえという感じ。

「私が悪い?」と聞き直すと、「そらそうだ、俺に頼んでくれたら、ここからこう回って故宮も行けたんだ」

心の中で”いや、この車だったらチャーターしないよ”だったが、最初の印象ほど不愛想でもなさそうだ。

 

運「後ろは親父さんか」、70歳のHさんのことだ。

私「いいや、私の生徒」、

運「生徒?じゃ、あんたが先生か?」

私「そう、私はジャズピアニストで、あの人はレッスンの生徒さん」

運「へぇー!お年寄りが生徒であんたが先生とはなぁ」

言葉はぶっきらぼうでも人柄は決して悪い感じはしない、フーテンの寅さんのような人、勝手な想像して申し訳なかったと心で詫びた。

後ろ3人に会話の内容を伝えていると、

運「日本語で『謝謝』は何て言うんだ?」

私「ありがとう」

運「アイヤトー?」

私「ううん、ア・リ・ガ・ト・ウ」

運「アーリガートー」

私「上手い!」、後ろからも「そうそう、ありがとう」の声に運ちゃん照れ笑い。

車内はほほえましい雰囲気だった。

ところが、この後予想もしなかったスリルが・・・。続く。

 

本日スイング / 北京ドライバー2-緊張する

かなり久々に7月のスケジュール更新しました。

本日は久々に銀座「スイング」に出演。さて、昨日からの続きですが・・・。

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 北京ドライバー2-緊張する

穏やか丁寧だった運転手ピーさんのタクシーを降りたのは天安門広場で、午後4時近かった。

ツアー到着初日に観光した天安門がすぐ左手、ここから入って「故宮」観光が最終予定だったが、昼間の渋滞ロスで閉門時間アウト、ならばと右手の「前門」へ。

 

「前門」(ぜんもん)は清の時代から続く老舗店など歴史と伝統を感じるエリアだが、大規模開発が始まっていた。

歩道も工事で掘り返されて、作業員は普段着、誘導路も誘導員もなし、「日本じゃ考えられませんねぇ」と言いながら、がれきの中を注意して歩いた。

工事は入口だけで、エリア内は老舗お茶屋漢方薬店など、皆さん時代風情をデジカメに収めつつとても喜んでくれて、かえって正解だった。

夕陽も沈みかけて、「ホテルに戻って夕食にしましょう」とタクシーを拾いに通りに出た。

上ランク狙いだったが空車が来ず、やっと停めた一台に「10分くらいですから我慢して下さい」と皆さんに断って乗り込んだ。

 

随分使い込んだ車、運転手は40前後のがっしりした体格で髪は坊主刈り、使い込んだTシャツとジーパン、先ほど別れたピーさんと全て対照的だった。

3人は後部座席、私は助手席へ座り目的地を言って発車すると、後ろ3人の会話を聞いて運転手「日本人か」と素っ気なく。

「そうだ」と答えると「ふーん」・・・すごく不愛想な感じで、まさか反日感情などと緊張した。

後ろ3人は「前門って良かったですねぇ」と言いながら互いのデジカメを見せ合っている、余計な不安は伝えず、運転手に下手なカタコトで話さないでおこうと黙った。

続く。

7月スケジュール

まだまだ、出演は少ないですが7月の出演予定です。

7月

5日 俺のフレンチイタリアン青山  ソロ弾き語り
 
8水 俺のイタリアンJAZZ / 俺のやきとり 銀座 ソロ弾き語り
 
15水 銀座スイング
 
21火 俺のフレンチイタリアン青山 ソロ弾き語り
 
23木 俺のイタリアンJAZZ / 俺のやきとり 銀座 ソロ弾き語り
 
30木 銀座スイング

 

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北京ドライバー1-にわかツアコン

2006年秋、ピアノの生徒さんたちと北京旅行に行くことになった。

20代女性二人と70歳男性、皆さん中国は初めてで、北京に何回か行った私がにわかツアコンとなって2泊3日の旅。

 

到着した翌日は快晴に恵まれ、「万里の長城」からスタートする一日の予定、これまでの経験からタクシー貸切は直接交渉。

タクシーは基本料金にランクがあって、当時は安いと小さくて状態も悪い車が多く、運転手も制服がなく自由、ホテル前に並んだ中から「この車でこの人なら」と選び値段交渉して出発。

運転手ピーさんは40歳過ぎた辺りか、韓国製シエンタイ(現代)の新車、ポロの水色ボタンダウンにスラックス、髪型もこざっぱり、とても穏やかな人でカタコトの私にも丁寧に受け答えしてくれた。

 

前回長城に行ったのは6年前(2000年)で道路が空いていて40分ほどで到着、ところが市内も高速も凄まじい渋滞で2時間半かかった。

到着した八達嶺長城登り口、以前は小さなお土産店がぽつんとあって、でこぼこした広い空き地に適当に駐車した、それが、凄い人混みの向こうにビルがデンとあってお土産店と有名レストランの看板、駐車場は整備されて大型観光バスずらり、数年前とは別世界だった。

 

ピーさんに冷たいドリンクを渡して駐車場で待機してもらい長城へ、高低差ある石段の連続で70歳のHさんが心配だったが、とてもお元気に楽しんでくれた。

帰路も渋滞して北京市内に戻り遅めのランチ、その後市内何か所か立ち寄り、午後4時近くに天安門広場で下り、ピーさんに支払ってお別れした。

この後「故宮」観光で無事予定終了のはずだったのだが・・・。

握った拳(こぶし)

30歳になる頃、郷里福井のあわら市に住む母が函館に住む兄の下へ引っ越して、実家がなくなった。

家内も同郷なので帰省や仕事で福井には行くが、あわらとの縁は薄くなって何年も過ぎた。

40代後半、福井市で地元新聞社主催による「高浜和英トリオ・コンサート」があり、これが縁で「あわら楽友協会」という文化鑑賞団体から連絡があった。

2005年、3月19日、高浜和英トリオ(酒井一郎、八城邦義)でのコンサート。

育った町で初めての演奏、会場は私が高校時代に開館した「あわら市観光会館」。

 

リハーサルを終えると、スタッフの方が「高浜さんに面会の人がいるんですけど、楽屋にお通ししていいですか?」と、どうぞと言うと懐かしい人が訪ねて来た。

それが順番待ちをしていたかのように次々と、小学校の同級生、近所のおばちゃん、おじちゃん、ぱっと分かる人、しばらく話して「あ!」と分かる人。

本番が近づいても続くので、スタッフの方が「また終演後に」と締め切りにしてくれた。

縁遠くなったと思っていたのに、多くの人が覚えていてくれたことに驚いた。

トリオの二人「俺たち東京生まれだからこんなことないよな、故郷がある人が羨ましいよ」と。

コンサート無事終了して打ち上げ。

小学校の同級生と地元の方言で話していると、ドラマーの八城くん「へー、高浜ちゃんって方言しゃべれるんだね」と、本来これがネイティブなんだが。

この頃、既に北村英治さんのレギュラー5年目、上京した若き日、東京生まれの人が羨ましく、志半ばにして故郷に戻れずと握った拳も随分と緩んでいた。

バイエルとラーメン

昨日、初めて餃子を食べたのが18歳以降、そんなまさかと思う人がいるかもと書いたら、「そんなまさかでした」のメールを頂いた。

確かに昭和30年~40年、福井県芦原町(現あわら市)は温泉町ではあったが、中華料理店、ラーメン専門店はなく、そば、うどん、中華そば(ラーメン)が一つの店にあって、素うどん、ラーメンが50円から60円に上がった頃。

 

幼稚園だったから昭和36年か、銀行の二階に「ヤマハオルガン教室」がオープンして、母によると私が「行きたい」と言ったらしい、教室の風景と譜面を記憶している。

足踏みでない「電気オルガン」が何台かならんで、譜面は横長のイラスト入りカラー印刷、「ぶんぶんぶん(鉢が飛ぶ)」「茶色の小瓶」など子供向けの曲が大きな譜玉で書かれていた。

高級品のピアノより安価な電気オルガンの販売促進もあったのだろう、我が家は購入して小学校に上がった。

担任がたまたま音楽の先生で、初めてピアノを習うことになった。

週いちの放課後に音楽室で、私の他に同級生の男子1人と女子2人の4人。

「バイエル」から始まって、2年生になった頃に先生がオルガンでは鍵盤タッチが覚えられないからと言われて、親がアップライトピアノを購入、当時18万円で高価な買い物だったと思う。

 

先生は30歳くらいだったかの男性で、隣町から通ってらして声楽が専門だった。

ビートルズは音楽じゃないから聴いてはいけません」で、悪さをする子に厳しい罰を課す緩さのない先生だったが、ピアノレッスンは厳しくなく優しい目をされていた。

小学校2~3年のある日、レッスンで「みんなラーメン食べるか」と先生、皆「食べるー」というと、「ちょっとまってて」と電話をかけにいって出前をとってくれた。

皆で食べた黄色い錦糸卵が乗った「いとう屋」のラーメン、今も忘れられない。