銀座の昔

昨日、「俺の割烹」・「俺のフレンチ・タブル・タク」掛け持ちソロ弾き語り。

夕方4時から「割烹」、ピアノを囲むカウンターには私に近い世代の方がずらり。
「アマポーラ」「虹の彼方に」「酒とバラの日々」など、曲名を告げただけで軽く拍手、曲の解説に大きく頷き、終わると大きな拍手。

「タク」に移動、窓際席にずらり若いお客様。曲名だけで反応がある、とは思えないので、「目の前に見える通りは、60年ほど前は川だったそうで、そんな時代からこの銀座にはジャズの店が多く・・・」などのトークに、「へえ」と。

「タク」の最寄駅は「新橋駅」だが、住所は銀座8丁目で「コリドー街」に面している。
この通りに初めて来たのは20代半ば、「サイセリヤ」というジャズライブ店だった。
そこで共演させて頂いた、大先輩テナーサックスの故芦田ヤスシさんから伺う話が面白かった。

終戦直後にそこの新橋駅前に露天が出てて、大きな鍋でシチューを売ってた。
それが、進駐軍(米軍)の残飯を集めて煮込んだもんだから、時々チューインガムとか、たばこの箱とか得体の知れないものが出て来るんだよ。そんなんでも、当時は敗戦で食うものがなかったから、大勢の人が買って食べてたね。
そんな時に俺たち(ジャズ演奏家)は、日比谷あたりのオフィサーズ(将校クラス)クラブに演奏に行くと、ステーキとか食えたんだよ。肉は硬かったけどね

コリドー街に沿う首都高速の高架が昔は川だった。
「この通りは終戦直後はまだ川だったから、海からボラとかが上がってきたりして、それを獲って食べる人もいた」

若い私にとって本やテレビよりも実感できる、かつての銀座風景だった。
レスター・ヤングなどスイング時代そのものの素晴らしいテナーサックス奏者だったが、惜しくも4年前に他界された。

私が生まれたのは昭和30年。敗戦からたった10年後だが、焼け跡も進駐軍も残飯シチューも全く知らない。驚異的な復興の速さに人が生きるたくましさを感じる。

その芦田さんと同じく昭和4年生まれの北村英治さん、こちらはとにかくお元気、驚異的なお元気。
本日は、銀座「スイング」でご一緒させて頂きます。