五十嵐明要さん

昨日、銀座「エムズ」にソロ出演。

親しいMさんが来店、その後、アルトサックス大御所の五十嵐明要(いがらし あきとし)さんが奥様とお越しになっって、皆さんカウンターに。

2回目ステージ中で、店主&歌手影山ミキさんから「上海シリーズを」との声、以前、この店でよくあった、"On a slow boat to China ""Shanghai Lil'"を私が弾き語り、ミキさん登場でドリス・デイで有名な"Shanghai"~「蘇州夜曲」。

休憩時間、五十嵐さん「蘇州夜曲は子供の頃に聴いて好きな曲」だそうだ。

御年84歳、戦中戦後のご記憶、「あの頃、パリ帰りと言っても、あまりに遠すぎてピンと来ない、上海帰りと言うと、何かハイカラで洒落た雰囲気を持った感じがした。

演奏家でも外国に行くことは稀な時代、距離的に上海は唯一可能だった。
軍楽隊でも陸軍は国内だけだが、海軍だけは外国に行って各国文化を体験した」

戦後のジャズ事情
「私(五十嵐さん)の先輩で、流ちょうにアドリブする人はいなかったね。
戦後、グッドマンのスイングとか、新しいビバップなどをどんどん吸収した。
特に優れていたのがテナーの松本英彦、それと若死にした守安祥太郎
彼はバドパウエルとか丹念にコピーした。他に、秋吉敏子、サダオ(渡辺貞夫)とかね。

守安ちゃんは俺より8歳ばかり上だったけど、彼が『スタイルは違うけど素晴らしいピアノだ』と言ってたのが、秋満(義孝)さんだった」

当時の貴重な録音が「幻のモカンボセッション’54」としてレコード発売され、五十嵐さんも参加している。
「あれは私が22か3の頃だったね。私は楽しい和む歌ものが好きで、ビバップはどうもだったけど、当時は新しいものに進んでたからそんなこと言えなかったね」

日本でも戦前からジャズは流行していたが、流暢なアドリブを展開する本格的なジャズ演奏スタイルは、戦後、五十嵐さん、そして北村さんが第一世代と言える。

大先輩、楽器は御持参なかったが上機嫌で貴重な話を伺えた。
そんな時間を過ごせる、影山ミキさんのバー「エムズ」も貴重である。

さて、本日も銀座で、「俺のフレンチTOKYO」。
レギュラートリオ(酒井一郎B、八城邦義Dr)での出演。