時の流れ

昨日まで1970~80年代の話を書かせてもらった。

私がスイングジャズと出会ったきっかけのクラリネット小田洋司さんは「俺は時代遅れ」が口ぐせだった、当時テレビでも人気だった北村英治さんですら「あの時代は辛かった」と振り返るのは、ジャズがモダンのみを意味する偏った時代だったのは間違いない。

今の50代以下のジャズ演奏家に話すと「そんな時代があったんですか」と驚く。 

若き日、そういう偏重への抵抗感と”人と違ったことをやりたい”思いが重なって、スイングでコーラスだったわけだが、さほど突出したことをやったわけでなく時代の流れの中にあった、と、今は思う。

 

1960年代のモダンに特化した「ジャズ喫茶」文化が残りつつ70年代に入ってロックとジャズ融合したフュージョンブーム、80年代に入った頃に阿川泰子さんで女性ジャズヴォーカルブーム。

83年「ロミ&ジョーカーズ」がデビューして以後、カフェバーがブームになりアールデコ風のインテリアとジャズがトレンドとなる。

90年代後半、ウイントン・マルサリスやジョージ・シアリングといった大物ジャズアーティストがディキシーランドのアルバム発表すると、モダンへの偏りも消えていく。

2000年以降、インターネットの時代に入るとあらゆる音楽が個々人の好みで選べ、もはやスタイルや古い新しいなどの差別もなくなり、良い時代になったと感じている。

 

コーラスでデビュー

昨日、「ディレクター川島重行さん」と書いたが「プロデューサー」の誤りで、謹んで訂正します。

現在でもネットに功績が評価されるプロデューサーとの出会いはとてもラッキーで、スイングジャズを旬の新鮮な音楽として表現したい私の想いが形になろうとしていた。

 

1983年、28歳の誕生日を過ぎた8月12日、豊島区音羽キングレコードで、トリオの伴奏から録音開始。

その伴奏にリードヴォーカルとコーラスをかぶせる、日頃楽器演奏しながらのコーラスなのでマイク前に立つのは初めてだった。

録音して調整室に行ってプレイバックを聴く、NGでスタジオに戻ると立ち位置がずれて声のバランスも違ってくる。

一計を案じた川島さん、スリッパを用意してマイク前の立ち位置にガムテープで固定・・・お世話をおかけした。

アレンジャーの沢井さんが参加、管楽器など重ねてサウンドが出来上がって行った。

録音が全て終わり音のバランスを整えるトラックダウンに数日、ひと月近くかかって9月に入って完パケ

 

川島さんから「バンド名を覚えやすくすっきり」との提案にあれこれ考えて、「ロミ&ジョーカーズ」に変更。

アルバム発表は11月、それまでの間にレコード会社からのメディアへの根回しでマネージャーも忙しく、ジャケット撮影はドレスとタキシードと決まると、ドレス新調、男性3人は丸井のクレジットで購入。

結成からわずか1年の急展開、若者にとって長く濃密な時間だった。

「30歳までに自分の音楽を形に」が贅沢な形で叶った。

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マネージャーとコーラス

前日からの続き

「亜樹山ロミとスイングジョーカーズ」を結成して、私がコーラスのアレンジ、ほぼ3日おきにリハーサルの日々、ほどなくロミさんの弟が転職を機にバンドマネージャーを買って出た、27歳の私より二つほど若かった。

我々はそれぞれに活動していたが、このバンドとしての仕事は月に数本、とても専業マネージャーで食えるわけもなかったが彼なりに夢を感じたのだろう。

デモテープなど資料を手作りして精力的に飛び込み営業、ライブハウス、ホテル、イベントなど仕事と人脈が広がって、ある日レコーディングの話を持って来た。

 

当時、演奏家として世に示す形はレコード、自主制作よりも人様に評価されたかったが、これまで個人的に話があって消えた経験もあった。

何日か後、キングレコードのディレクターがライブにお越しになった。

川島重行さんは40歳越した辺りか、とてもきさくな方で、“When You’re Smiling” “After You’ve Gone” “Yes Sir That’s My Baby”などのスイングナンバーをお聴きになって「これはいける、是非アルバム作りましょう」と。

 

高度成長時代、大手レコード各社にジャズ制作部があって、川島さんはフュージョンのヒットアルバムを生んだ凄腕ディレクターで希望の予算が確保できた。

当初、我々4人とアドリブに管楽器入りくらい考えていたが、なんと、「アレンジャーを頼んでフルバンドのサウンドにしましょう、曲によって希望の楽器もフューチャーして」、夢のような企画。

1983年、夏も盛りに入って27歳が終わろうとしていた。(明日へ続く)

 

 

 

マジでコーラス

1940年代までのジャズは大衆娯楽としてショーアップし、バンドが掛け声や歌うことも珍しくなかったが、50年代半ば以降ビバップ、モダンへと進化するにつれて歌手が歌い、バンドは楽器演奏のみが普通になった。

1982年、国分寺のライブ「アレキサンダー」のマスターに「ピアノトリオのコーラスは珍しい、マジでやってみろ」と言われて練習、出演することになった。

 

26歳になった夏、お盆で東京から人が少なくなる時期で馴染みの常連が10人ほど、ほぼ素人芸コーラスでの“被害”が少ない日を選んでくれたのだ。

トリオ演奏とヴォーカルで3回ステージ、コーラスは各ステージ1曲だったと思う。

終演後マスター「ヴォーカルと演奏はいいけどコーラスはひどいね、あれじゃあお金とれない」、しょせんトリオの歌は素人とシャレで笑って終わり。

ところがマスター「もっと練習して、2ヵ月後にまた」

まさかの”また”でシャレで済まなくなった。

その次の終演後「前よりマシだけど、まだお金とれない。練習してまた」

発声も知らず始めたので、トリオ3人クラシック声楽家のレッスンを受け、アレンジも工夫、当然ピアノの修練も。

 

「スイング時代のジャズ」「寄席とテレビバラエティー」の要素で、大衆性と高い音楽性でショーアップしたステージをやりたいと意欲が湧いた。

「寄席とテレビバラエティー」というのは、音楽漫才「かしまし娘」や「シャボン玉ホリデー」に共通するオープニングとクロージング曲のことで、日本語詞でジャズっぽいテーマ曲を作った。

若手演奏家はラフな服装が常識の時代に常にスーツで、バンド名も昭和が香るような「亜樹山ロミとスイングジョーカーズ」、バンドとステージングの形が整った。

シャレでコーラス

昨日からの続きで、クラリネットの小田さんの仕事で知り合ったベーシストとドラマーは私とほぼ同世代。

ドラマーはモンキー小林(現:小林陽一)、ビバップスタイルのバンドリーダーとしてライブ活動、スイング曲は初めてだったが「楽しい」と、それは小田さんのクラに魅力があったからだ。

別の場所で知り合った女性歌手の亜樹山ロミさんはピアノ弾き語りをしていたが、ジャズの仕事をしたがっていた。

これら仲間によるトリオと歌でライブ活動、私は20代半ば、レッド・ガーランドオスカー・ピーターソン、テディ・ウイルソンなどのモノマネがあちこち散らばったピアノだった。

 

ナット・キング・コールやマット・デニスの弾き語りに強い興味を覚え、ジャズに興味薄の人にも歌はアピールすると思ったが自分にその技量はない。

その頃、コーラスの「マンハッタントランファー」のレコードに収録されたグレンミラーの「タキシードジャンクション」、インクスポッツ「ジャヴァジャイブ」など、古典ながら新鮮でおしゃれで、「これだ!」。

 

高い理想に燃えた「これだ」なら良かったが、実際は「歌うはずのないバンドのコーラスは下手でも受ける」で、仲間も面白がってくれた。

発声なんか分からず練習したが、前々からドラマー小林氏の渡米修行が決まっていてコーラスは未完に。

国分寺のジャズライブ「アレキサンダー」でモンキー小林を送る内輪の会があり、「シャレで」とコーラス披露、プロのジャズトリオによる下手な宴会芸に笑いと拍手。

会の終わりにマスターが私に「あれ面白いよ、ドラマー探してマジでやりなさい。形になったら出演してもらうから」、予想外の言葉だった、シャレじゃすまなくなった。

 

若き日の悩み

1970年代後半、ホテルやキャバレーなどのバンドにレギュラーとして毎日通う仕事を「ハコ」と呼んでいた。

通常はポピュラー音楽や映画音楽が7割でジャズは3割ほどだったが、クラリネットの小田洋司さんのハコは演奏の7割がスイングジャズだった。

スイングを初めて知った私には新鮮だったが、日本の高度成長と相まったようなジャズの革新と前進の風潮に、43歳の小田さんは「俺は時代遅れ」が口ぐせだった。

 

スイングの曲はモダンジャズと違って、例えばコード進行が単純でそれまで覚えたアドリブのやり方が合わないのでテディ・ウイルソンなどの録音を聴いてマネた。

マネることから学ぶとは言え、曲によってスイング風だったりモダン風だったり、モノマネから抜け切れず四苦八苦。

更に周囲から「そんな昔の音楽やっても食っていけない」と言われると、無駄なことを努力しているのかと大いに悩んだ。

 

1979年頃には全国の歓楽街にあったキャバレーが衰退し初め、ハコの演奏家で譜面は読めるがアドリブは得意でなく、フリーでは食っていけないと廃業し転職する人が増えた。

私もフリーとなったが、覚えたばかりのスイングをどう表現するか、演奏の未熟さと将来への不安があった。

30歳までの数年になんとか自分の音楽を形にしたい、それで35歳まで食えなかったら見切りをつけて郷里に戻ろうと考えた。

明日に続きます。

 

 

スイングに出会う

昨日書いたコルトレーンの「至上の愛」は1965年に発表され『ジャズが大衆娯楽から芸術音楽に至った作品』と高く評価された。

ジャズは芸術的発展へと進みファンはそれ以前のスイング、ディキシーなど見向きもしなくなり、ジャズ喫茶にはかつて花形楽器だったクラリネットのレコードもなく志す若者もいなくなった。

とはいえ、鈴木章治さん、藤家虹二さん、レイモンド・コンデさん、そして北村英治さんといったジャズクラリネット奏者は当時の働き盛り世代に人気だったが、若い革新的ジャズファンは大衆娯楽として一線を画した。

 

1975年、私が20歳でプロデビューしたのはホテルのバンドで、バンマスは西村さんというクラリネットとアルトサックス、バイブラホンとたまに歌も歌う器用な方だった。

ポピュラー、映画音楽、スタンダードジャズなどの演奏は楽しいが、これは食うための大衆娯楽で目指すところはモダンジャズだった。

 

その後キャバレーなどの仕事を経て24歳、ある店に通うことになってバンマスがクラリネット小田洋司さんのカルテット。

"Indiana","Avaron","Shine"など初めて演奏する曲が多く、モダンジャズと一味二味違う、でもえも言われず楽しい、それがスイングジャズだった。

キャバレーに類する店だったが、オーナーは小田さんが「あずまのトンちゃん」と呼ぶ元ベーシストだったので自由に演奏出来たことが私にも幸いした。

それまで眼中になかったスイングジャズ、もっと知りたいと小田さんにベニー・グッドマンのレコードを借りて聴く内に益々のめりこんだ。

もはや大衆だの芸術だのどうでもいい、なんだこの楽しさは、こんな演奏をしたいという思いに駆られた。