日本洋楽史

昭和のテレビで拝見した田谷力三さんは「浅草オペラのスター」と紹介されたが、子供の私には凄い声で歌うおじいさんで、江戸情緒イメージの浅草と洋物オペラがどう結びつくのか全く理解出来なかった。

こういう訳の分からん思いがあると知った時の喜びは大きい。

 

明治時代の終わる頃、文化人や政治家が尽力し初の西洋式劇場として帝国劇場を設立、外国人指導者を招きオペラの座員養成、中には歌舞伎俳優もいたそうだ。

上演されたが上流階級の舶来趣味で庶民には縁遠いものだったらしい。

イタリア人指導者との関係も上手くいかず、座員の一部が独立して和洋折衷の軽演劇を創作、大衆娯楽文化中心地の浅草に向かう。

大正6年(1917年)常磐座で上演された伊庭孝演出「女軍出征」(じょぐんしゅっせい)

戦地で男が死に絶え女性ばかりの軍隊が出征、戦艦アトランティック号に乗り込むが敵の砲撃を受けあわやのとこで援軍により勝利する内容だったらしい。

これが大当たりして、中で歌われた英国曲「ティピラリーへの道」"It's A Long Way To Tippirary"も人気となった。

この歌は第一次世界大戦で欧州で好まれ日本の浅草へ、一方アメリカではジャズが醸され熟す頃でディキシーランド定番曲となる。

大衆人気を得た浅草オペラだったが誕生からわずか6年、大正12年(1923年)関東大震災の災禍を被り徐々に形を変え生き延びる。

若手として舞台を踏んだ二村定一榎本健一エノケン)は昭和に入りジャズを取り込み活躍。

 

私世代が親しんだ俳優の左卜全さんは帝劇養成所出身、浦辺粂子さんは浅草オペラ出身、明治に始まる日本洋楽史がさほど遠い昔でもなく感じる。

 

6月-7月スケジュール