台本追記ー先輩話1

昨日まで書かせてもらった舞台「青空のある限り」に登場した昭和24年の若きジャズ演奏家たち、その世代が40代の終わりを迎える頃に私は駆け出しピアニストとして共演させて頂いた。

先輩から伺うリアルな進駐軍時代の話はまるで映画を観るようだった。

 

各地の進駐軍関連施設に娯楽としてジャズバンドがかき集められた。
東京駅八重洲口や新宿駅南口などに演奏家が集まり、手配係の呼びかけに応じ急ごしらえのバンドで車で各施設に向かったそうだ。
中にはギターを持っているだけでコードもおぼつかないが、頭数を揃えるために「弾いたふりしろ」と採用、これを「立ちん坊」と言った。
当時は音響機器も簡素で聴こえない楽器があっても不思議なく、人数分のギャラが支払われた。
演奏後は軍担当者がAからCまでランク付け、Aランクは将校クラブなど好条件の仕事があったそうだ。

 

ドラマー五十嵐武要(たけとし)さん
「演奏してる目の前で米兵がステーキ食ってんだ、日本人が食うや食わずの時代だから見てるだけでもたまんないよ。
ある日、演奏が気に入ったからお前らもご馳走するって、そらもう嬉しくてかぶりついたよ。
ところが塩コショウだけで味気ないし肉が硬くて噛み切れない、あいつらこんなの食ってたのかだったね」

 

弟の五十嵐明要(あきとし)さん、あの魅惑のアルトサックス名人も駆け出しの頃、
「ダンスの伴奏でバンド全員譜面弱くて、踊りは終わって手を挙げてポーズとってんだけど、こっちは譜面にくぎ付けでエンディングも分からず演奏してんだ、ダンサー『終わってー!』と叫んだね、慌ててジャーンだった」
明日に続く。

 

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