ギョウザ4-麻婆豆腐に出会う

餃子を初めて食べたのは東京に来た18歳以降かと思う。

そんなまさかと思う方がいるかもしれないが、昭和30年~40年代、福井の温泉町にはそば屋のメニューに中華そばがあっただけで、中華料理店もラーメン専門店もなく餃子もなかった。

同郷同世代の家内も同じと言うので、多分そうだと思う。

高校で福井市に通う頃には地元チェーンのラーメン店にも行ったが、餃子は食べた記憶がない。

 

1973年に上京して最初に住んだのが北区の西ヶ原、今も走っている都電荒川線路面電車)の沿線だった。

近所の「正楽園」はご夫婦経営の小さな街中華、ここで初めて食べたのが・・・餃子でなくてすみません、「麻婆豆腐」だった。

中華料理を知らない地方出身の若者にとって衝撃の美味、自炊していたので自分で作れないかとレシピ本を買ってきた。

『豚ひき、豆腐、しょうが、にんにく、/ 塩、砂糖、醤油、唐辛子、スープ、片栗粉』ここまで簡単に揃うが、『中華甘味噌、なければ赤味噌』、えっ、これって?

当時は中華調味料が一般的でなく「中華甘味噌」は謎、これだけに赤味噌を買う訳にも、で、手元にあるコンソメの素と味噌で作った。

出来たのは味噌汁色で見た目からして違って、マズくもなかったがポーっとした味、似てない似顔絵のようだった。

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味噌自体が違うなど考えもしなかったが、武蔵野市に引っ越してある日、テレビの料理番組で「甜面醤」(テンメンジャン)を知って「あ、これだったのか」と、横浜中華街で買い求めて作ったら俄然近づいた。

その後、スーパーでも豆板醤、豆鼓醤など手に入る時代になると、更に凝って鶏ガラでスープから作ったこともあった。

餃子も麻婆豆腐も子供でも知る今、隔世の感あり。

ギョウザシリーズ終わります。

ギョウザ3-ワンタンで張り付く

「餃子」は中国でもほぼ同じ漢字で読めるが、ワンタンは日本で見る「雲吞」が広東など南の言葉で、北京など北では「餛飩」と書く。

2000年に家族で北京旅行に行き、タクシー運転手が「安くて美味しい人気店」と教えてくれたのが「餛飩侯」(ワンタンホウ)。

週末の夜で繁華街「王府井」(ワンフーチン)は凄い人で賑わっていて、店の前でタクシーを降りた。

人気店にしては行列もなくラッキーと思って入ったら、なんと、満杯の人、人、人、それが食事中のテーブルに張り付くように立って待つ人で混んでいる。

日本であり得ない光景に「やめようか」と尻込みする私に、家内「これだけ混んでいるのは美味しいに違いないから頑張ろうよ」と意外な根性。

 

二階に上がると少しマシで、部屋の隅に待ち人ないテーブルを見つけて我々も張り付く。お母さんと6~7歳の女の子、慣れっこなのか我々など全く気にする様子もなく、7~8分待って席が空いて座った。

メニューが印刷された紙に希望の個数を書き込んで、店員に渡したいが凄まじい忙しさでなかなか呼べない、少し離れた席に運んできた店員に手を振って大声で呼んで、やっと。

しばらくして料理が、スープワンタンと蒸しワンタン、日本のより大きくて食べ応えありすごく美味、一家4人ドリンクもとって1000円でおつり、味も値段も張り付いた甲斐あった。

この頃の北京は行列の習慣がなく、地下鉄やバスのラッシュ時も早いもの順、私が停めたタクシーに脇から走り込まれたことも、高度成長初期の勢いある気力体力社会だった。

2006年を最後に北京には行ってないが、つい先月テレビでコロナによる間隔を開けて並ぶ行列を見た。

ギョウザ2-手作り体験

昨日書いた「水餃」(シュイジャオ)は、中国では正月料理で、じいちゃん、ばあちゃんから孫まで家族総出で作業を分担して作る、家族のきずなでもあったが、最近は核家族化でスーパーの冷凍餃子がよく売れるらしい。

 

50代過ぎた頃、地元の公民館で「中国文化講座」に参加、週いちの4回シリーズ。

在日する中国人が講師で簡単な中国語や日中文化の違いなど、最終回が餃子作り体験だった。

先生は北京出身の50代男性、料理人ではないが子供の頃から手伝って覚えた。

「各家庭で餡の中身は違いますが、今日紹介するのは私の実家のレシピです」

にんにくは使わず白菜やニラなど、ひき肉、そして卵が意外。

中高年の男女20人ほどが4~5人づつのチームに別れ、チーム内で作業を分担、私は粉を水で練ってこねる担当だったが、下手だった。

先生が見本でこねるときれいな菊の花に、私は粘土細工というか粘土不細工だった。

卵は炒り卵に、山椒は先生「中国のホワジャン(花椒)と違うから香が弱いな」と。

 

こねた小麦粉は真ん中に穴をあけてドーナツ状に、それを切って棒状に、端から小さく切ってまるめ、手で押して平らにして丸い棒で伸ばす。

端は薄く真ん中は厚みをもたせて皮が完成、あとは餡を包んで茹でる。

子供時分からピアノの他にもいくつかの楽器を演奏して手先が器用だと言われてきたが、実は不器用だった自分を痛感した。

皆で作った水餃子ランチ、美味しかった。

ギョウザ1-あれぇ?

「餃子」は中国語で「ジャオツ」と言うことを知ったのは20歳頃だった。

友人と街の中華屋に行き「餃子2つ」と注文、店員さん威勢よく「はーい、コーテルリャンガ!」、リャンガは中国語の2個だと分かったがその前が違うので、「餃子はジャオツじゃないんですか?」と聞くと「コーテルです」と言われて、”あれぇ?”だった。

 

それから20年余り、43歳で趣味として中国語を覚え始めると、多くの知る喜びに出会う。

餃子そのものは「ジャオツ」だが調理法で言葉が変わり、焼き餃子のことは鍋貼児「グォーティアル」、その満州方言が「コーテル」、あの時の謎がやっと解けた。

因みにギョウザの発音も中国の方言由来だそうだ。

 

2000年に初めて北京へ行き、レストランで家内に「こちらでは水餃子が常識なんだ」と事情通ぶって、かつてコーテルで「あれぇ?」だった私とは違うんだと、店員さんに「シュイジャオツ」(水餃子)とオーダーした。

ところが通じない、水「シュイ」+餃子「ジャオツ」=「シュイジャオツ」だろ、何で?、あれぇ?・・・、3回言ったら店員さん「アー、シュイジャオ!」と。

「水餃子」がまんま中国語と思っていたが実は「水餃」(シュイジャオ)だった、己の浅識を恥じる一方で、何で「子」(ツ)がなくなるんだ、「ツ」が付いただけで分からないのかと。

が、しかし、「パン」を食べたいのに「ツ」を付けたら大変なことになる、そういうことか、と、決して知的と言えぬ理屈で納得した。

なかなか一筋縄ではいかないギョウザだった。

 

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マスターAさんー3

マスターAさんの店はスポンサーがいらして、趣味でジャズピアノを弾くほどの音楽好きでお仲間の会を開くなどして応援し、私の出演日にもよくお越しになってくれた。

 

ライブは夜7時過ぎから11時半までだが、大抵、9時過ぎてご常連がお帰りになるとマスターと二人きり、会話の合間に弾き語りの練習、11時過ぎまでいて「お疲れさん」だった。

マスターの出身は富山県、私は福井県で北陸同士の親近感もあった。

富山県に行く仕事が増えてきた時期で、私の土産話を「あぁ、あの街も変わっただろね」と懐かしそうに聞いていた。

この頃、弾き語りのレパートリーと仕事が増えて行った。

このブログの前身である「日記帳」に、北村英治さん、水森亜土さん、私リーダーライブ、演奏旅行など、盛況で活気ある話題を更新したが、この店のことは「静かな大人の夜だった」などと言葉選びに苦労した。

 

店が六本木から赤坂に移転して1年ほど経った2009年、スポンサーの方が50代半ばでお亡くなりになった。

支援がなくなって、毎月の家賃支払いに苦労していた。

ある日店に行くとマスター「今日家賃やっと払えた、ほっとしたー」、「そら良かったね」と会話した後、お客様来店し「マスターお久しぶり」、マスターいきなり「〇〇さん、今日やっと家賃払えたんだよ」

それ、久々のお客様に言うか、だったが、余程ほっとしたのだろう。

「俺って客商売に向いてないよなぁ」と独り言のように言っていたが、ある日「もういよいよ限界なんだ、高浜くんも来月一杯で、ごめん」と頭を下げた。

 

行かなくなって3~4ヵ月経って、仲間から閉店したと聞いた。

その後しばらくして携帯にかけたが出ず、今もご健在であればと思う。

マスターAさんー2

2005~6年頃、ソロで出演し始めたライブのマスターAさん、人は悪くないが愛想は・・・、出演から1年過ぎる頃から客足は少なくなっていった。

私にこの店が盛況になるファンがいればいいのだが、各所出演していて難しい。

マスターため息交じりで「毎月お客にハガキ案内しても来てくれない」と言うので、「メールの方がいいんじゃない」と言うと、「俺はメール出来ない、覚える気もない」。

店のホームーページは知人に依頼しているそうで、出演スケジュールは毎月更新されているが、連絡先はマスターの携帯のみというのも珍しかった。

少しでも店の潤いになればと貸切ライブを企画し、打ち合わせの電話を夕方目掛けてかけたが4~5回かけ直しても出ない。

翌日に出演で何故電話に出なかったか聞くと、「あ、その時間近所に買い物に行ってた」、だって携帯でしょうがと言うと「仕方ないよ、店に置いて出るから」当たり前といわんばかり、一事が万事この調子。

店の掃除は行き届いていて常に花も飾っている、でも、お客は減る一方。

 

お客様不在の時間は弾き語りの練習で全く無駄ではなかったが、ギャラも「ごめん、次回まとめて払う」「ごめん今5000円しかない、残りは次に」が増えて、”分割払い”してはくれたが、私も心苦しいので出演辞退を申し出た。

「そんなこと言わないでよー、払えなくて言えないけど、高浜くんの演奏気に入ってるんだよ」と、情にほだされ、弾き語りの修練場でもあるし、ま、いいか、だった。

 

こんな状況でも店が維持できたのはスポンサーのお陰で、私の出演時にはいつも数名連れでお越しになってくれたが、2009年に50代半ばの若さで亡くなられ、いよいよ・・・続く。

マスターAさん―1

「ロミ&ジョーカーズ」は10年活動して自然解散した後、弾き語りをしたいと思ったが、一人で歌うのは難しかった。

コーラスはきまったフレーズを複数一体となって合わせるが、ソロヴォーカルは自由な表現が大切、その自由が不自由で技術も表現も足らず。

練習してもなかなか上達なく「どうせピアニストの余技」という気持ちもあって、一日のライブで1~2曲のかくし芸で40歳越した。

45歳、北村英治さんとの共演が始まると、私がコーラスやっていたことをよく覚えていらして「何か歌ってごらん」と本番いきなり、これが次もまた次もと続くので「これはマズい」と歌の猛練習を始めた。

そんな頃、あるジャズバーに女性ヴォーカルの伴奏で行った終演後、マスターが「良かったらソロで出てよ」と。

北村さんの仕事以外に個人の仕事が少ない時期でもあり、ありがたかった。

 

マスターAさんは私より5歳ほど上、脱サラで水商売経てジャズライブの雇われマスター時代はバブル期で連日大盛況、その後独立して六本木で店を持った。

最初はバンドによるライブもやっていたが客足が落ち、私が行き始めた頃はデュオかソロだった。

音楽に純粋で人は良いが愛想良いとは言えず、思ったことをストレートに言葉する、出演した人の多くは「人は悪くないんだけど」の後に「あのマスター苦手」とか「キツイ言葉で怒られた」などと。

私は苦手なタイプでもなかったので、月に2~3回ペースで出演。

ピアノソロでスタートして、その内弾き語りを少しづつ入れて修練場としても大切な場となったが、お客様は更に・・・、明日に続く。